みなさん ! ごきげんいかがですか ?
猛暑も一段落しました。
朝晩ずいぶん過ごしやすくなってきましたね。
でも夏バテが出てくる頃です。
ご自愛下さい。
さて ! 今日の辻説法は
【 天台座主と小林隆彰大僧正の話 】 です。
先月の27日に岐阜羽島の現代の名工 ( 陶工 )
石山人 ・ 所一郎先生を訪ねました。
その時拳骨和尚の行く先を案じて
少しでも役に立てばと話されたことです。
さて ! 今日も元気に辻説法を始めますか。
座主さまに呼ばれた小林さんは
本当に ! 全部話してよいのだろうか ?
と一瞬迷われたそうです。
でもこの機会を逃したらもう二度と座主さまに話せなくなると思い
即座に一大決心をされたそうです。
【 織田信長なかりせば 】
もし織田信長の比叡山焼き討ちがなかったら ・ ・ ・
今の比叡山はなかったと思います。
ではどんな比叡山になったと思うのか ?
はい !
オーム真理教 ! とまでは言いませんが
金力 ・ 権威 ・ 名誉 ・ 武力 ・ 暴力などの権力が蔓延って
本来の仏教とははなはだしくかけ離れていたと思います。
かの強大な権力で院政を行った白河法皇ですら
【 賀茂川の水 双六の賽 山法師 これぞ朕が心にままならぬもの 】
と言っておられます。
山法師というのが比叡山の僧兵の事です。
四千人もいたそうです。
一番有名なのが 【 武蔵坊弁慶 】 です。
信長の焼き討ちは 【 不意打ちやだまし討ち 】 ではありません。
では何なのか ?
織田信長の天下布武に立ちはだかった将軍足利義昭に味方し
浅井朝倉連合軍を匿 ( かくま ) う延暦寺の僧兵四千人が強大な
武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた
織田信長の叡山の軍事力に対する戦争です。
そして信長は延暦寺に武装解除するよう再三通達をしました。
叡山はこれを断固拒否しました。
元亀9月11日 ( 1571年 ) 夜中より比叡山の東麓を
3万の兵が隙間なく取り巻いて早朝の攻撃の合図を待った。
この動きを察知した延暦寺は
黄金の判金300
また堅田からは200を贈って攻撃中止を嘆願した
がぁ ! 時すでに遅し
織田信長はこれを受け入れず追い返した
これを受けて同年2年 ( 1571年 ) 9月12日
延暦寺を取り囲み焼き討ちしました。
延暦寺の堂塔の全てが炎上し多くの僧兵や僧侶子供女人が殺害された。
( 当時比叡山は建前は女人禁制でした )
このすさまじい出来事については
京から比叡山の炎上の光景がよく見えたと
イエスズ会のルイス・フロイスの報告にもあります。
この焼き討ちの 【 大義名分 】 です。
【 山本山下の僧衆 王城の鎮守たりといえども 行躰 行法
出家の作法にもかかわらず 天下の嘲弄をも恥じず
天道のおそれをも顧みず 淫乱 魚鳥を食し 金銀まいないにふけり
浅井・朝倉をひきい ほしいままに相働く 】 と
【 信長公記 】 にあります。
この織田信長の焼き討ちがなければ
【 金と暴力と権力 】 にまみれた残骸が
叡山に魔物の如く今も尚棲みついていたと思います。
まだまだ聞きましたが長くなるので止めます。
これが座主さまが 【 それは最もな話である 】 と言われた内容です。
その最もな話を一年間沈黙されたのです。
今日はこれまで !
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