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2025/05/20 00:07 |
拳骨和尚の辻説法 その696 【 身延入山直後の御草庵 】
FI106_1E.JPG
みなさん ! ごきげんいかがですか。

昨日の辻説法で

次ぎに問題となるのは 【 漆塗り 】 の問題なのです。

とお話しました。

その前に大切な事をお話しなければなりません。

大石寺発表によると

弘安二年 ( 1279年 ) 十月十二日に !

完成した !

この楠板の大曼荼羅を !

日蓮大聖人と中老日法上人が !

【 何処 】 で制作していたか ?

つまり 【 場所 】 と 【 建物 】 を特定しなければなりません。

みなさん ! 一体 ! 何処だと思いますか ?

非常に大切な事です。

それを検証してみましょう。



FI106_2E.JPG
我が師日蓮は佐渡流罪を赦免され鎌倉に帰ってきます。

鎌倉幕府執権北条時宗と決裂します。

その後波木井実長公の招きで身延へ入山します。

文永11年 ( 1274年 ) の事です。

5月17日身延山に入山し

同年6月17日より鷹取山 ( たかとりやま ) のふもとの西谷に

構えた草庵を住処とされました。

わずか一ヶ月で作られた急ごしらえの安普請の草庵は

たった三年で崩れ落ちてしまいます。

建治3年 ( 1277年 ) に住めるように修理されます。

この時の間取りは

【 間口四間 ( 7.28m ) 奥行三間半 ( 6.37m ) 】 です。

その四年後 !

日蓮大聖人御入滅の十一ヶ月前の

【 弘安四年 ( 1281年 ) 十一月二十五日 】 に

十間四面 ( 18.2m ) の 【 大坊 】 が完成します。

本当に !

大聖人がお寺と呼べる建物に住まわれたのは !

人生の最後の !

【 十一ヶ月間 】 だったのです。

弘安二年十月十二日 ! ( 1279年 )

【 本門戒壇の大御本尊 】 と言う楠の分厚い大板の曼荼羅が

完成した時 ? と言う !

この時の草庵 【 お堂 】 が残っています。

身延山で 【 一番古い建物 】 です。

【 法界堂 】 と言います。

【 日蓮聖人の御草庵のおもむきを後世に伝えるために

十間四面の御草庵に模し 間口四間 奥行三間半に縮小し

一部には当時の御草庵の古材を用い建造されたもので

聖人の在山をしのぶよすがとされています。】 【 身延の風 】 より。

昭和3年11月に大修理を加えられ

昭和44年9月12日 身延町の文化財に指定されました。

身延の山中に建てられた急造の草庵は

日蓮大聖人の入山から四年後には柱は朽ち壁は落ちてしまいます。

草庵を取り巻く環境は !

生きるか死ぬかの大変厳しいものだったのです。

この狭い御草庵 ・ お堂を !

日蓮大聖人はこのようにおっしゃっています。

【 庵室は七尺 雪は一丈 四壁は冰 ( こおり ) を壁とし

軒のつららは 道場荘厳の瓔珞の玉に似たり 】

( 秋元御書 御書全集 1078頁 )

【 坊ははんさく ( 半作 ) にて かぜ

( 風 ) ゆき ( 雪 ) たまらず

しきものはなし 木は さしいずるものもなければ 火もたかず 】

( 兵衛志殿御返事 御書全集 1098頁 )

このような環境の中で御書を 【 三百編以上 】 書かれます。

これは御書の 【 四分の三 】 を占めるのです。

御書の四分の三を書かれたのですよ !

板曼荼羅を彫刻し !

漆をかけ !

金箔を押した !

場所は !

大石寺の正式発表のよると !

この狭い崩れた最初の草庵を修理した草庵です。

でないと辻褄が合わなくなります。

拳骨御和尚は ・ ・ ・ 板曼荼羅を造る時間は無かったと思います。



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2008/10/13 18:14 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択

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