みなさん ! ごきげんいかがですか。
昨日の辻説法で
次ぎに問題となるのは 【 漆塗り 】 の問題なのです。
とお話しました。
その前に大切な事をお話しなければなりません。
大石寺発表によると
弘安二年 ( 1279年 ) 十月十二日に !
完成した !
この楠板の大曼荼羅を !
日蓮大聖人と中老日法上人が !
【 何処 】 で制作していたか ?
つまり 【 場所 】 と 【 建物 】 を特定しなければなりません。
みなさん ! 一体 ! 何処だと思いますか ?
非常に大切な事です。
それを検証してみましょう。
我が師日蓮は佐渡流罪を赦免され鎌倉に帰ってきます。
鎌倉幕府執権北条時宗と決裂します。
その後波木井実長公の招きで身延へ入山します。
文永11年 ( 1274年 ) の事です。
5月17日身延山に入山し
同年6月17日より鷹取山 ( たかとりやま ) のふもとの西谷に
構えた草庵を住処とされました。
わずか一ヶ月で作られた急ごしらえの安普請の草庵は
たった三年で崩れ落ちてしまいます。
建治3年 ( 1277年 ) に住めるように修理されます。
この時の間取りは
【 間口四間 ( 7.28m ) 奥行三間半 ( 6.37m ) 】 です。
その四年後 !
日蓮大聖人御入滅の十一ヶ月前の
【 弘安四年 ( 1281年 ) 十一月二十五日 】 に
十間四面 ( 18.2m ) の 【 大坊 】 が完成します。
本当に !
大聖人がお寺と呼べる建物に住まわれたのは !
人生の最後の !
【 十一ヶ月間 】 だったのです。
弘安二年十月十二日 ! ( 1279年 )
【 本門戒壇の大御本尊 】 と言う楠の分厚い大板の曼荼羅が
完成した時 ? と言う !
この時の草庵 【 お堂 】 が残っています。
身延山で 【 一番古い建物 】 です。
【 法界堂 】 と言います。
【 日蓮聖人の御草庵のおもむきを後世に伝えるために
十間四面の御草庵に模し 間口四間 奥行三間半に縮小し
一部には当時の御草庵の古材を用い建造されたもので
聖人の在山をしのぶよすがとされています。】 【 身延の風 】 より。
昭和3年11月に大修理を加えられ
昭和44年9月12日 身延町の文化財に指定されました。
身延の山中に建てられた急造の草庵は
日蓮大聖人の入山から四年後には柱は朽ち壁は落ちてしまいます。
草庵を取り巻く環境は !
生きるか死ぬかの大変厳しいものだったのです。
この狭い御草庵 ・ お堂を !
日蓮大聖人はこのようにおっしゃっています。
【 庵室は七尺 雪は一丈 四壁は冰 ( こおり ) を壁とし
軒のつららは 道場荘厳の瓔珞の玉に似たり 】
( 秋元御書 御書全集 1078頁 )
【 坊ははんさく ( 半作 ) にて かぜ
( 風 ) ゆき ( 雪 ) たまらず
しきものはなし 木は さしいずるものもなければ 火もたかず 】
( 兵衛志殿御返事 御書全集 1098頁 )
このような環境の中で御書を 【 三百編以上 】 書かれます。
これは御書の 【 四分の三 】 を占めるのです。
御書の四分の三を書かれたのですよ !
板曼荼羅を彫刻し !
漆をかけ !
金箔を押した !
場所は !
大石寺の正式発表のよると !
この狭い崩れた最初の草庵を修理した草庵です。
でないと辻褄が合わなくなります。
拳骨御和尚は ・ ・ ・ 板曼荼羅を造る時間は無かったと思います。
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